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2012年5月18日 (金)

山上の石仏

白滝山

Dsc_0187r除虫菊を訪ねた後、近くの白滝山にある石仏を訪ねました。白滝山は、標高約227mの山で因島を代表するビュー・スポットです。山頂近くまで車で登ることができ、駐車場から山頂へは10分程度で登れます。

山頂には、1569年(永禄12)因島村上氏第6代の村上吉充が見張所を置き、観音堂を建立したと伝えられています。360度の眺望が得られますから見張りをするにはもってこいの場所です。因島村上氏は能島村上氏・来島村上氏と並ぶ瀬戸内海を支配した海賊衆です。

山頂には、五百羅漢の石仏があります。文政10年柏原伝六とその弟子達によって造られた700体の石仏です。




頂上からの展望はすばらしく、歌人吉井勇が、
「白滝の山に登れば眼路広し 島あれば海 海あれば島」
と詠んでいます。 山頂からの夕日に映える瀬戸内海はきっと美しいと思います。下の掲載写真に写っている橋は、因島大橋です。

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Dsc_0202r石仏の中には触ると安産になると言われている石仏や子供を授かると言われている石仏があるようですが気づきませんでした。

掲載写真の仏さんのお名前の確認を怠ってしまいました。端然と佇んでおられる仏さんは荘厳です。遠く見えるのはひうち灘と因島大橋です。

今回は訪ねませんでしたが、「白滝山」参道を登り、山頂近くに因島八十八ヶ所霊場八十五番札所八栗寺があります。寺とはいえ小さなお堂のようです。 因島には、このような大きさのお堂が各所にあるそうです。

白滝山と除虫菊の風景は「にほんの里100選」に選定されています。機会があればまた訪ねてみたいと思いました。

2012年5月15日 (火)

除虫菊の咲く島

除虫菊の咲く島

Dsc_0088r5月10日に、尾道市因島の除虫菊の花を訪ねてみました。海の見える斜面に白い除虫菊の花が咲いていました。

除虫菊は、明治初期に日本へ伝わり、殺虫剤や蚊取り線香の原料として栽培が始まっています。

広島県は、昭和初期には除虫菊栽培の主産地として、中でも因島は拠点栽培地でした。満開時の5月には島を白一色に染め、壮大な風景だったようです。

今は、除虫菊の栽培を伝承するため、保存と観光用に昭和56年から小規模ですが栽培が続けられています。



眼下は、因島の重井西港のある湾です。本土と島、島と島を結ぶ船が行き交っています。「しまなみ海道」の立派な橋が架かっていますが、船も貴重な交通手段です。

確認していませんが、このあたりの斜面は、かってはミカンが栽培されていたのではないかと思います。みかんの咲く丘の歌が聞こえてきそうです。

 Dsc_0095rみかんの花が 咲いている
 想い出の道 丘の道
 
はるかに見える 青い海
 お船が遠く かすんでる

 黒い煙を はきながら
 お船はどこへ 行くのでしょう
 波に揺られて 島のかげ
 汽笛がぼうと 鳴りました

 何時(イツ)か来た丘 母さんと
 一緒に眺めた あの島よ
 今日もひとりで 見ていると
 やさしい母さん 思われる


Dsc_0146r1946年(昭和21年)、NHKラジオ「空の劇場」のテーマ曲として唄われた童謡です。この「みかんの花咲く丘」は、当時人気絶頂の童謡歌手川田正子さんの歌声で放送され、日本全国に大反響を呼び、日本を代表する童謡となっています。

戦後の殺伐とした空気の中で、ラジオから聞こえてくるこの歌に心が癒されました。加藤省吾さん作詞、海沼 実さん作曲です。曲も詩も好きです。

歌の舞台は、瀬戸内海の島とばかり思っていましたが、JR 東日本の伊東線の国府津駅付近から宇佐美駅付近にかけてのみかん畑であることを知りました。

当時のことですからGHQで詞の検閲を受けて発表されています。今の若者には解らないその時代の世相です。

当時「リンゴの唄」(並木路子・霧島昇)が大ヒットしていた時期でもあり。世に出すにあたっての秘話があるようですが、省略させていただきます。

現在この曲は、Jリーグの愛媛FCの応援ソングになっていて、選手入場時にサポーターが歌うそうです。

掲載写真は、みかんの花です。訪ねた時期が少し遅く、きれいな花が見つかりませんでした。歌からのイメージではもっと華やかな花かと思っていました。

    

2012年5月12日 (土)

べんがらの里と日本最古の木造校舎

銅鉱山とベンガラの里

090406r吹屋(ふきや)は岡山県高梁市成羽町にある地区です。 石州瓦とベンガラ漆喰壁の赤い町並みで知られ、歴史的町並みの残っており、重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。

吹屋は、江戸時代中期頃より、幕領地として吹屋銅山を中心とする鉱山町へと発展し、幕末頃から明治時代にかけては銅鉱とともに硫化鉄鉱石を酸化・還元させて人造的に製造し、ベンガラ(酸化第二鉄)として日本唯一の巨大産地として繁栄を極めたようです。

吹矢地区の近くに、江戸時代後期に巨大な財を成した大野呂の庄屋広兼家2代目の元治が建てた巨大な邸宅があります。城郭のような雄大な石垣と母屋・土蔵3棟・桜門・長屋は江戸時代の文化10年(1810年)に、離れは大正時代に建設されたそうです。訪れた時は日も暮れ写真になりませんでした。この広兼邸は、1977年の松竹映画『八つ墓村』などの映画のロケ地になったそうです。


里山の固有の文化が残っており、備中神楽や渡り拍子など伝統的祭事にも保存伝承されているそうです。今年の3月で廃校になりましたが、日本最古の木造小学校として親しまれた吹屋小学校もあります。

旧吹矢小学校


Dsc_9965r吹屋小学校の校舎は、小中学校で国内最古とされており、現役で使用されている日本最古の小学校校舎でした。2010年度現在の在籍児童数は6人と少なく、今後も入学者が増加する見込みの立たないこと
から、2011年度(2012年3月)末での廃校が決定され、2012年3月20日に最後の卒業式と閉校式が執り行われたそうです。廃校となる正式な日付は3月31日であり、それまでは5年生以下の在校生は平常授業が継続されました。

開校は1873年(明治6年)で、1899年(明治32年)に現在地に移転しています。1900年(明治33年)竣工の西校舎・東校舎(木造平屋建)と1909年(明治42年)竣工の本館(木造2階建)とで構成されています。

折上式天井などの贅沢な意匠、100年を経ての現役使用を可能とする部材・構造であることなど、当時の吹屋を象徴する建造物ともいえます。

NHK連続テレビ小説「カーネーション」では、小原糸子が通う岸城尋常小学校のシーンの撮影に使用されたそうです(ただし外観のみ)

ベンガラ

Dsc_0023r「ベンガラ」の語源は、インドのベンガル地方に酸化鉄(天然産)が多く産出し、これがわが国に流入して来たところから、俗にベンガラニッチ略して ベンガラといわれたとする地名転化説が有力です。天然に産しますが、現在、市販されているベンガラは合成されたもので工業用ベンガラだそうです。

1707年(宝永4年)、備中吹屋(岡山県)において偶然の機縁から磁硫化鉄鉱より得られる緑礬(りょくばん)を原料とした良質のベンガラ製造法が発見され、その後大正時代に至るまで、世にいわゆる「吹屋弁柄」として隆盛を極めたようです。

ベンガラは、着色力・隠蔽力が大きく、耐熱性・耐水性・耐光性・耐酸性・耐アルカリ性のいずれにも優れており、安価な上無毒で人体にも安全なため非常に用途は多いそうです。工業用に用いられるほか、中部・近畿地方以西の伝統的民家建築の木材に塗られているものを目にすることができます。

090401r

ベンガラは高梁市成羽町吹屋の特産物として全国唯一の生産地であり、陶器、漆器、建造物、船舶等に高級塗料として使用されてきました。高級品は陶磁器の模様書き(九谷、伊万里、薩摩等)漆器の下塗(輪島・讃岐等)家具塗装、染料、印肉、船舶錆止め等、非常に広範囲に使われ、古くから貴重品として扱われています。掲載写真は、笹畝坑道のすぐ近くにあるベンガラ館に展示してある製造工程の一つです。ベンガラ館は、明治時代のベンガラ工場を復元したものです。

   

2012年5月 9日 (水)

こんな小学校で学んでみたい 旧遷喬尋常小学校

旧遷喬尋常小学校

2012年4月29日に、旧遷喬(せんきょう)尋常小学校を訪ねました。旧遷喬尋常小学校は、1907年(明治40年)に巨額な費用を投じて建てられた木造校舎が、1990年(平成2年)の夏、84年の歳月を残し小学校の役目を終えています。


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Dsc_9214rどっしりとした威容を誇る木造校舎が、明治の先人たちが残した学校教育への情熱を感じます。人生の出発点を育んだ小学校時代を、この校舎で学んだ子供が羨ましい。

現遷喬小学校は、旧遷喬尋常小学校の校舎から、1990年(平成2年)にオープンスペースの現校舎に移転しています。また、鳥取市と福知山市にも同名の小学校があり、鳥取市立遷喬小学校とは 姉妹校の縁を結び交流をしておられるそうです。

校舎は、建築専門誌に「迎賓館を思わせる豪奢な洋風建築」、「木造ルネッサンス風小学校」と紹介されているようです。なお、旧遷喬尋常小学校校舎は、岡山県真庭市久世にあり、国指定重要文化財です。

設計は福島県出身の岡山県工師江川三郎八、監督は中村錠太郎、施工は高橋岩吉です。校章は高瀬舟をデザイン化したものだそうです。

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校名の由来

校名は、幕末の漢学者山田方谷が命名されたそうです。校名は中国の詩経の「出自幽谷遷干喬木」(幽谷よりいでて喬木にのぼる)に 由来しています。ウグイスが深山の暗い谷間から飛び立ち高い木に移ることに譬えて、「学問に励み 大いにはばたけ」といった意味が込められています。詩経小雅「伐木」は下記のとおりです。

伐木丁丁、鳥鳴嚶嚶   木を伐ること丁丁(とうとう)たり、鳥の鳴くこと嚶嚶(おうおう)たり。
出自幽谷、遷于喬木   幽谷より出でて、喬木に遷[のぼ]る。
嚶其鳴矣、求其友聲   嚶として其れ鳴く、其の友を求むる聲あり。
相彼鳥矣、猶求友聲   彼の鳥を相(み)るにも、猶友を求むる聲あり。
矧伊人矣、不求友生   矧(いわ)んや伊(こ)の人、友生を求めざらんや。
神之聽之、終和且平   神の之を聽いて、終に和らぎ且つ平らかならん。

上記に続いて、以下次の通り12行分ありますが、「書き下し文」は省略します。

Dsc_9218r伐木許許,釃酒有藇
既有肥羜,以速諸父
寧適不來,微我弗顧
于粲灑掃,陳饋八簋
既有肥牡,以速諸舅
寧適不來,微我有咎

伐木於阪,釃酒有衍
籩豆有踐,兄弟無遠
民之失德,幹餱以愆
有酒湑我,無酒酤我
坎坎鼓我,蹲蹲舞我
迨我暇矣,飲此湑矣

詩經卷之四 朱熹集註より

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長野県喬木村の村名由来

喬木村(たかぎ)の由来は、1875年(明治8年)に五村合併の時、中国古典の「詩経」伐木三章「幽谷より出でて喬木に遷る」に因(ちな)んで名づけられています。木伐の音がとうとうと響き鳥が和やかに呼び合い、相和しながら、村作りを進めるという崇高な理想が込められているそうです。合併時に安易でしらける命名が多い中、ここ喬木村は実に教養に満ちた由来による命名です。

村鳥は、喬木村命名の元となった中国の詩経の中に出てくる鶯です。伊那谷の地には桜を求めて何回も訪れていますが、喬木村は素通りしています。機会があれば訪れてみたいと思います。

2012年5月 6日 (日)

鯉のぼり一考

鯉のぼりの由来

Dsc_9116r端午の節句には、室内に飾る「五月人形や鎧兜」と屋外に飾る「鯉のぼり」があります。五月人形などは「厄などから子供を守る」ために、鯉のぼりは「健やかな成長と立身出世を願う」想いがあります。

鯉のぼりは、日本の風習で江戸時代に武家で始まっています。端午の節句に厄払いに菖蒲を用いることから菖蒲と「尚武」と結びつけて男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事となりました。この日、武士の家庭では、虫干しをかねて鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾っていました。

商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、のぼりの代わりに五色の吹流しを美々しく飾るようになったようです。さらに吹流しを飾るだけではなく、一部の家庭で「竜門」の故事にちなんで、吹流しに鯉の絵を描いたものを揚げていたようです。


「竜門」の故事は、後漢書による故事で、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となっています。

本来は真鯉(黒い鯉)のみで、明治時代から真鯉と緋鯉の対で揚げるようになりましたが、昭和時代からは家族を表すものとして子鯉(青い鯉)を添えたものが主流となっています。標準的な鯉のぼりの揚げかたは、上から矢車、吹き流し、真鯉、緋鯉、子鯉です。

歌川広重『名所江戸百景』に鯉のぼりの絵がありますが、当時はまだ錦鯉が普及しておらず、真鯉のみの鯉のぼりが描かれています。

都市周辺では集合住宅や少子化などのため、童謡に歌われるような民家の庭に高々と鯉のぼりが揚がる風景は少なくなっています。高速道路などでは風速・風向を示す吹流しが、4月・5月には鯉のぼりに取って代えられる場合もありますね。

下の写真は、鳥取県日野町の日野川に泳ぐ鯉のぼりです。バックの山は、大山です。

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文部省唱歌って何?


文部省唱歌とは、明治から昭和にかけて文部省が編纂した、尋常小学校、高等小学校、国民学校及び学制改革後の小学校の唱歌、芸能科音楽の教科書に掲載された楽曲の総称で、文部省が定めた正式名称ではないそうです。

「尋常小学唱歌」に収録された唱歌(全120曲)は、文部省が作詞者・作曲者に高額な報酬を払い、名は一切出さず、また作者本人も口外しないという契約を交わし、学校の音楽教育を通じて歌われ、広まったようです。唱歌は、合議制で編纂されたため、個人の著作物とするのは無理があるそうです。

検定教科書の時代になって著作者を明らかにしなければならなくまりましたが、その作業が学問的に行われたことはなく、著作者が判明しても根拠が弱いものも少なくないため、個々の作詞・作曲者を出さず「文部省唱歌」とだけ表記している教科書・歌集もあるようです。

文部省唱歌(尋常小学唱歌(五) 大正2年5月) 
鯉のぼり   作詞は不詳、作曲は弘田龍太郎

私たちが習った教科書では、2番が抜けているようです。オリジナルは以下の歌詞です。

0904021.甍(いらか)の波と雲の波
  重なる波の中空(なかぞら)を
  橘(たちばな)かおる 朝風に
  高く泳ぐや 鯉のぼり

2.開ける広き其の口に
  舟をも呑まん様(さま)見えて
  ゆたかに振るう尾鰭(おひれ)には
  物に動ぜぬ姿あり

3.百瀬(ももせ)の滝を登りなば
  忽(たちま)ち龍になりぬべき
  わが身に似よや男子(おのこご)と 
  空に躍るや鯉のぼり

こいのぼり     近藤宮子 作詞、作曲者不詳

この「こいのぼり」は、童謡です。近藤宮子さん作詞の「こいのぼり」は元々1番だけの歌だそうです。

  屋根よりたかい こいのぼり
  おおきいまごいは おとうさん
  ちいさいひごいは こどもたち
  おもしろそうに およいでる

  (昭和6年『エホンショウカ ハルノマキ』)

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作詞者はわかりませんが、次のような2番の歌詞 も歌われているそうです。

  みどりのかぜに さそわれて
  ひらひらはためく ふきながし
  くるくるまわる かざぐるま
  おもしろそうに およいでる




2012年5月 3日 (木)

巨樹 千鳥別尺のヤマザクラ

千鳥別尺のヤマザクラ

Dsc_9115t広島県の桜開花の最後を締めくくる桜の一つである「千鳥別尺のヤマザクラ」を4月29日に尋ねました。


「千鳥別尺のヤマザクラ」は、広島県の北東部庄原市東城町(旧比婆郡東城町)にある県の天然記念物に指定されている桜です。樹齢 400年、樹高 27m、胸高幹囲 4.6m、根元幹囲 6.7mの堂々たるヤマザクラです。

ヤマザクラの若葉は、普通赤茶色で、花の開花と同時に開きます。しかし、「千鳥別尺のヤマザクラ」は、花の開花時にはあまり開きません。珍しいそうです。ヤマザクラは、巨樹が少なく、胸高幹囲 4.5mを超えるものは全国で15件だそうです(1990年調べ)。

老大木ですが、幹が空洞化していなく樹勢は旺盛です。根元に小さな祠が祀ってあります。

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例年、4月下旬に見頃になりますが、年によっては連休に見頃になる場合もあります。今年は、4月26日に見頃になりました。4月下旬になって暖かい日が続き、一気に見頃になりました。私が訪ねた4月29日は気温が25度を超え汗ばむほどでした。下の掲載写真は、2009年4月18日に撮影したものです。この年は見頃が早かったです。

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田起こしと代かき


桜も咲き、Dsc_8964r水も温んできました。トラクターで田起こしの作業をしているところを撮らさせていただきました。田おこしは、土を掘り返して眠っていた土に空気を入れ、稲の生育を助ける微生物の活動を活発にさせることが目的です。

田起こしは稲を刈った後に起こす「秋起こし」と、田植え前に行う「春起こし」があります。稲刈り後にワラを田んぼ全面に敷いて、土壌改良材を混ぜトラクターで耕します。一緒にスキ込んだワラも微生物の働きで分解が早くなります。また切り株や雑草も一緒に埋め込むので秋の田起こしは良いそうです。

田起こしをすることによって、土を砕いて団粒化したり、雑草の種子を深く埋めることにより、雑草の発生を減らすことができ大事な農作業です。

田んぼの表面を平らにし、苗を同じ高さで植えるための作業が『代かき(しろかき)』です。代かきをすることによって泥の層ができ、底から水が漏れるのを防ぐことができます。代かきが終われば田植えです。苗が約15cmぐらいに成長したのを確認し、苗床から田んぼに移し、田植えをします。掲載写真は、2012年4月24日に撮影したものです。

      
    

2012年4月30日 (月)

円正寺・金秀寺のしだれ桜

煌めく

Dsc_9022r東城町森地区から庄原市高野町に移動し、円正寺・金秀寺のしだれ桜を訪ねました。ここ円正寺と金秀寺のしだれ桜はすばらしいです。好都合なことに円正寺と金秀寺は隣同士なので一度に両方の桜を見ることができます。両寺のしだれ桜とも塀の上から競うように顔を覗かせています。

円正寺にはしだれ桜は2本あり、樹齢300年といわれ、広島県天然記念物に指定されています。一株は、樹高 9m、胸高幹囲 3.2mです。もう一株の枝垂桜は、樹高 12m、胸高幹囲 3.18mです。また、円正寺の裏には、エドヒガンがあります。

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堂々

Dsc_9029r金秀寺は、浄土真宗本願寺派のお寺です。金秀寺には、樹齢は若干若いものの、妖しい枝振りのしだれ桜が1本あります。桜は山門の右側にあります。樹高 18m、胸高幹囲 2.5mで、地上1.2m付近から2支幹に分かれでいます。

豊かな樹冠からは、地面に届かんばかりに細く長い枝を垂らしており、樹勢、樹形とも良く、境内の地面まで垂れ下がる姿が美しいです。


爛漫

円正寺の裏の小高い所から、両寺を俯瞰する形で撮影しました。ここから見ると桜に囲まれたお寺という雰囲気です。

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なお、両寺のある高野町へは、中国自動車道「庄原IC」から432号線を北へ35km走ると庄原市高野町の中心部に着きます。

   

2012年4月28日 (土)

森湯谷のエドヒガン

孤高

Dsc_8915r「小奴可の要害桜」の近くの森地区に巨樹の桜があります。「森湯谷のエドヒガン」と呼ばれています。樹高約25m、根回り周囲 6.00m、胸高幹囲5.06mです。樹冠はほぼ球状です。胸高幹囲5mを超えるエドヒガンは、,西日本では少なく学術上貴重な存在だそうです。

広島県内最大のエドヒガンは、総領町の「下領家のエドヒガン」(全国第5位)、次いで東城町の「小奴可の要害桜」です。三番目がこの「森湯谷のエドヒガン」です。

樹幹の枯損部が少なく、樹勢は極めて旺盛で、端正な樹形をしています。県の天然記念物に指定されています。この桜の大きさは周りの杉の木と比較するとそのスケールがわかります。見頃は4月15日頃から4月27日ごろです。気象条件によって10日程度ずれます。今年は4月23日頃が満開でした。


豪華

Dsc_8918r


水温む

「森湯谷のエドヒガン」を後にして、庄原市高野町に移動している道中で、小休憩を取りました。まさに水温むです。川沿いに桜が咲いていましたので撮りました。

Dsc_9006r

2012年4月26日 (木)

要害桜

輝く

Dsc_8855r4月24日に桜を訪ねて広島県の備北に行ってきました。広島県の県北は、芸北と備北地区があります。いずれも素晴らしい桜のあるところです。

この度は、庄原市東城町を訪れてみました。広島県北東部の東城町には、「森湯谷のエドヒガン」、「千鳥別尺の山桜」と、ここに紹介する「小奴可の要害桜」の三本の古桜が県の天然記念物に指定されています。東条ICから314号を北に20km程です。

「小奴可の要害桜」は,樹高 18m,根周り周囲 6.55m、胸高幹囲5.70mで、エドヒガン桜です。今年は花つきが今一つですが、ほぼ見頃でした。

苗代桜

亀山城跡の一角に所在していることから、「要害桜」と呼ばれています。また、花が咲く頃が苗代を作る目安とされ、「苗代桜」としても親しまれています。

この亀山城に関する正確な資料は現存していないそうですが、、近世の文献によると、平安時代末期には奴可入道西寂の居城であったとされ、その後奴可四郎・奴可源吾・平四郎・飯田新助・亀井武蔵守茲経らが居城したと伝えられているようです。しかし、史実としては明らかではないようです。

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花言葉…「何も求めない」

要害桜の近くの雑草地で翁草を見つけました。下向きに咲く花なので写真を撮るのには苦労します。横着をして標準ズームレンズのテレ側で撮りました。バックのボケも贅沢はいえません。「まずまず」と納得することにしました。

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2012年4月24日 (火)

恵蘇八幡宮と良成親王陵墓を訪ねて

恵蘇八幡宮

Dsc_8651r恵蘇八幡宮は、応神天皇、斉明天皇、天智天皇を祭神として祀り、毎年10月の第3日曜日、豊作を祝う「神幸祭」が開催され、獅子舞や笛、太鼓の奉納などでたいへんなにぎわいを見せるそうです。訪れたときは、恵蘇八幡宮の“春大祭”の日でした。

由諸によると、斉明天皇は661年、百済国救援のため筑紫の朝倉橘広庭宮(朝倉町大字須川)に下られ、国家安泰と戦勝祈願のため、宇佐神宮に奉幣使を遣わされたそうです。使の一行が恵蘇山麓に達した時、天上から白幡が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから、天孫八幡なる宮社が創建されたとのことです。その後、斉明天皇・天智天皇を合祀し、この頃社名を恵蘇八幡宮に定めたといわれています。

恵蘇八幡宮の山頂には、一時斉明天皇を葬ったといわれる古墳があります。斉明天皇は661年5月9日(新暦6月14日)橘広庭宮にお着きになり、7月24日(8月27日)病のため崩御されました。中大兄皇子は御遺骸を、一時山上に御殯葬(ごひんそう)され、後に奈良県高市郡越知岡村へ移されたといわれています。

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木の丸御殿跡

中大兄皇子は、母の斉明天皇が亡くなられて7日後の8月1日、御遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地にお移しになり、その夕御陵山に仮に葬られたそうです。そして、陵下の山腹に丸木の殿を作られ、1日を1ヵ月にかえて12日間、母の喪に服されたといわれ、この地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになったそうです。

良成親王陵墓

Dsc_8694r八女市矢部村の御側(おそば)という集落にある大杣公園の中にある良成親王陵墓を訪ねてみました。良成親王は南北朝時代の後村上天皇の第6皇子で、1367年(正平22年)わずか5、6歳頃、叔父の征西将軍懐良親王(かねながしんのう)の留守居役として大宰府へ下向されています。

8年後の1375年(天授元年)14歳頃、懐良親王から将軍職を継がれ、南朝方の九州の将軍として九州の拠点である大宰府を中心に九州を守っておられた。
菊池氏一族と南朝再興のため一時勢力を拡げられたが、菊池城が落城してからは、近隣各地を変遷の後、この大杣の地に在所された。

中央における吉野南朝の衰退によって大勢は一変、1372年に大宰府が陥落し、征西府12年にわたる九州支配は終わった。良成親王も失意のうちに1392年(元中9年)、ここ大杣の御所で35歳という若さで亡くなられている。明治11年5月宮内庁よりこの地を御墓所に認定されています。


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